白瀧精彦氏(第四代会長)回顧録インタビュー
CJC「白瀧様は、2007年から2009年まで一期2年で会長をお勤めになられたのですね。まずはCJC(旧名MAJC)の会員になられた経緯をお話いただけますか」
白瀧「MAJCがシカゴ日系人会と合併する時期に、日系人会会長であった内本さんに誘われたのがきっかけです。内本さんの奥様は若柳流の踊りの師匠で、ご自宅の地下で踊りを教えられておりました。私はその当時は日系人会を手伝っておりました。しかし日系人会のメンバーも高齢化していくなかで、合併の話が持ち上がったのです」
CJC「白瀧様がアメリカに来た経緯も伺ってよいですか」
白瀧「1969年にシカゴに学生として来たのが私の北米での生活の始まりです。シカゴにいた叔父が来ることを勧めてくれたのがきっかけです。勉強はグラフィックアートを勉強していて、シカゴで最初の仕事はデザイナーでした。そして広告製品の制作に関わりました。それから2011年に商業不動産のブローカーに仕事を変えました。この頃から Skokieの商工会議所を手伝ったりしていたんです。他の日本人の方と比較して、私は日本のコミュニティとはあまり縁が深くありませんでした。逆にアメリカ人をお客様にして、ずっと仕事をして来たのです」
CJC「そうなんですね。では会長になられた経緯はどうなんでしょうか」
白瀧「第三代の竹内会長のときに、役職をやっていて、自然の流れで会長を引き受けました。竹内さん、亀田さん、安達さんと周りに助けてくれる人がたくさんいて、その意味ではあまり不安はありませんでした」
CJC「会長を引き受けるときのお気持ちはどうでしたか」
白瀧「アメリカに1969年に来て、周りの人が仕事やそれ以外のことで日本から飛び込んできた若者を助けてくれました。今度は自分が日本から来られる方を助ける番になったという気持ちで、恩返しのつもりでした」
CJC「素晴らしい志ですね。では、会長としてCJC(MAJC)を率いての活動で想い出に残ることはありますか」
白瀧「いくつかの想い出があります。まずは当時の Illinois Secretary of State の Jessie white氏に「日本祭り」に来てもらったことです。天皇誕生日のイベントでたまたま来場されていた White氏に、日本祭りのことを説明し「来ませんか」とお願いしたら、来てくれたのです。とても良い想い出です。日本祭りも盛り上がりました。また新年会、交通安全セミナー、ゴルフ大会もおこないました」
CJC「他にも何か想い出がありますか」
白瀧「MAJCを非営利団体である501(C)(3)に登録できたことです。これには初代会長の荻野さんのお知り合いの弁護士の力を借りて数か月かかりました。この登録によって寄付金が格段に集めやすくなりました。寄付する方が税控除を受けられるようになったからです」
CJC「それは素晴らしいですね。現在でもこの資格は維持していて、日本人会のために大いに貢献してくれていますね。会長を退任されてからはどうされましたか」
白瀧「副会長や理事を何年もやった記憶があります。「新風」という機関紙の制作にも時間を費やしました。いろいろな活動のなかで、竹内前会長はじめ多くの方が助けてくれたのを覚えております。当時、この会にはいくつか部会があり、会員になると、それぞれの部会にアサインされ、そこでの活動に繋がる仕組みが上手く動いていました。私は2022年に引退して、今はゴルフや釣りなどに時間を使っています」
CJC「今回はどうも貴重なお時間ありがとうございました」
白瀧「こちらこそありがとうございます」