竹内 清太(第3代会長)

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回顧録 「走馬燈の如し」

藤本光 現会長からMid America Japanese Club (MAJC)*(以下「マジャック」)元会長として回顧録を書くよう依頼されました。原稿を依頼され頭を整理し始めたのが2月14日のバレンタインの日でした。(* 現名称はChicago Japanese Club)

さて、「記憶は不確」な面もありますが「記録はより正確」

このような持論のもとに会報を読み返しながら書くことが適切かと思い、綴り始めました。マジャックのいろいろな役職で得た経験を含め、会長職を引き受けた以前の思い出も含めて書くこともよいだろうと思いました。

私のシカゴでの生活が始まったのが1964年。現在(2023年)から59年も前のことです。当時、日本の会社の駐在員はまだ数少なく、そのグループの中でも一番若手の一人であったと思います。シカゴには日本人の知り合いもほぼなく、日系人団体にも知り合いはおらず、まったく五里霧中の環境でした。

ちなみに、1964年はJapanese American Association of Chicago, JAAC(シカゴ日系人会)が発足した年で、のちにマジャックと合併しMAJC/JAACとなりました。

現在のThe Japan Chamber of Commerce and Industry of Chicago (JCCC) は当時「日本人クラブ」と呼ばれ、ゴルフの親睦会のようでしたが、1966年に「シカゴ日本商工会議所」へと発展したと記憶しています。

私も日本を出るときに万歳の歓呼で見送られた企業戦士の1人であり、現在は数が少なくなった「昭和の枯れすすき」かも知れません。当時は「新日系人」とも呼ばれたようでした。

マジャックが2年のインキュベーション準備期間を経て1993年に発足し、今年が30周年になります。マジャック創立の経緯は荻野初代会長の回顧録に詳しく述べられ、藤川第2代会長の回顧録にも記述されています。

私がマジャックに入会したのは1994年で、会長職は2003 - 2004年,2005 - 2006年の2期4年間にわたり務めました。しかしこの会の頂点に至るまでにはビジネス部会長、専務理事の役目にも従事し、人間を高めるチャンスを頂いたと思っています。このようにマジャックとは長い付き合いになります。

この回顧録には何名かの諸先輩方の名前が出ますが、私は当時発起人の一人であった千代慎子さんに誘われて入会しました。千代さんは面倒見のよい姉御肌の人で、ビジネスの面でもお世話になりました。

マジャックの会合に何度か参加しているうちに何となく引き込まれていった感じです。私はもともと好奇心の強い性分で、いろいろな会合には極力参加をしていました。そうしているうちに、ボランティア活動での「修行」が始まった感じです。

会報39号が発行された時点で、前会長だった藤川定之さんの後を引き継ぐ運びとなりました。藤川さんは1996年から2002年まで7年間会長を務められました。非常に几帳面な方でいろいろと学ぶところがありました。

当時、マジャックにはオフィスやクラブハウスはなく、藤川さんの会社の会議室で役員会などが開催できるよう便宜を図っていただきました。また、会報発行の際には、マジャックの所在地として藤川さんのご自宅の住所が長く記載されていました。当時は不自由なことも少なからずありましたが、何とか工夫をこらし、前に進む時期だったと思います。

ある日のこと、藤川さんからランチに誘われたことを思い出します。誘われた場所はウッドフィールドにあるOlive Gardenでした。用件は元専務理事の棚瀬さんが急に日本へ帰国されることになり、私に専務役を引き受けてくれないかとの打診でした。その席で藤川さんにうまく口説かれ、その役を受ける破目になった感じです。それ以来、藤川さんと長いお付き合いが始まりました。

前述の通り、私は会長職を2期4年にわたり務めましたが、試行錯誤を繰り返しで、執行役員や理事諸氏に加え、元会長の方々に相談役をお願いし、多くの方の助けを得ながら進んで来ました。

では、会報39号を皮切りに2003年から2006年の思い出を以下にまとめたいと思います。

まず、会員や非会員の興味と認識度を高める一助にしたいと思いマジャックのしおり」作る必要を感じました。大きくなくても、まず「着眼大局・着手小局」の観点から、このしおりの作成は、この会のPRにも効果的だろうと思っていました。

さらに、会報「新風」を充実させ、マジャックの日々の活動を写真などに記録し、紹介することはよい案だと信じていました。そして、その案を編集部の皆さんと止まることなく、継続して努力していくことだと思いました。

後のページにある表(チャート1)にも示しましたが、会報は30号から「新風」と改名されました。この回顧録を書くにあたり、自分の記憶を呼び覚ますための大切な伴侶のように思えます。私なりに会員として関与したボランティアの歴史を振り返ってみます。

マジャックの創生期と云える1991 - 1992年のインキュベーション準備期間を経て、1993年に初代会長の荻野氏を初めチャーター・メンバーたる先達の皆さんが力を合わせマジャックが創立されました。日本名を「アメリカ中西部日本人クラブ」とし、その由来が1993年9月の創刊号に掲載されており、確固とした「ミッション・ステートメント」が掲げられています。いま一度読み返し、その意義を味わっています:

  1. 日系人の立場の向上
  2. 日系人間の相互扶助
  3. 日系人先達者の成果の継承
  4. アメリカ地域社会への貢献
  5. 日本とアメリカの親善
  6. 日本とアメリカの文化交流

読み返してみると、マジャック創立時の熱い気持ちは今もなお引き継がれていると感じます。同時に、上原将孝さんが主宰していた「ミッドアメリカ誌」(Mid-America Guide) というタブロイド紙の1993年10月号にも関連記事が大きく掲載されました。

竹内清太氏

竹内清太氏

会報はマジャックの重要なコミュニケーション・ツール

会の目的を会員諸氏に伝え、活動状況を報告し、一般へのPRに役立つ道具として「会報」はアナログでしたが、ベストのメディアだったと思います。最近は人工知能(A.I.)技術の活用が進みペーパーレスで便利な時代になりましたが、私は紙の印刷に安堵感を覚えます。私が会長職を果たす上で不可欠の道具であった会報を基に、さらにこの回顧録を書き進めます。

会報の編集と印刷に私自身も長く携わりましが、編集部の皆さんに大変な協力を頂きました。この際、特筆したい人は土屋裕敬(ひろゆき)さんです。編集部員としての活躍は勿論、創刊号からのコピーを作成し、奥泉栄三郎さん(シカゴ大学レーゲンシュタイン図書館日本学研究担当司書・故人)との連絡を密にとり、シカゴ大学の図書室へ寄贈した「復刻版」のもとになる資料作成に尽力されました。また「日米150年祭」(2003年1月から2004年12月)について、坂場三郎元シカゴ総領事へのインタビューをおこない、その内容を記事にまとめる事にも活躍しました。改めて感謝の気持ちを述べたいと思います。

歴史を積み重ねたユニークな会報

日本人組織であるマジャックの運営が営々として続くなか、活動情報を会員や一般の在米日本人、さらに他の日系人団体に伝える役目を果たしたのが会報でした。

チャート1 

1993 MAJC発足、会報創刊号は9月に発行された。総会は6月3日であった。
1994 会報タイトル「アメリカ中西部日本人クラブ」(会報タイトル “Mid America Japanese Club”)
1995 ― 同じく ―
1996藤川氏 ― 同じく ―
1997 ― 同じく ―
1998 合併により会の名称が「MAJC/シカゴ日系人会」となり会報のタイトルも変更

15号、17号、18号、19号、

1999 19,20,21,22,23,24,
2000 25,26,27,28,29,   (28号でロゴの候補が発表された)
2001 30,31,32,33,34,   (会報30号を機に「新風」と命名)
2002藤川氏 35,36,37,38
2003 4月竹内会長就任  会報 39,40,41,42,43
2004           会報 44,45,46,47
2005           会報 48,49,50,51
2006           会報 52,53,54,
2007 3月会長退任

マジャックが発展していく状況は会報「新風」によって報道されてきました。同時に、「シカゴ新報」にもさまざまな活動、特に「日本祭り」「ヤードセール」「新年会」の様子が詳しくコラボレーション特報されてきました。

会報のタイトルも変化し、1994年1月号では以下のようになりました:

“Mid America Japanese Club” アメリカ中西部日本人クラブ     

会報の制作と編集、さらに印刷の担当者は時と共に変遷しました。創刊間もない頃、記事の執筆と編集を川口加代子さんに依頼したと記憶しています。また、会報の印刷は会員の横沢さん(ヨグラフィックアート)や坂本さん(オリエンタル・プリンティング)に発注されていました。印刷された会報はレストランや日系食料品店などに郵送し、一般の方々への配布に協力をお願いしました。時の経過と共に会報の編集作業にも改善が加えられました。

地域社会を盛り上げた2大イベント

基本的に、会員資格の有無を問わず、多くのボランティアや参加者を集めた「日本祭り」と「ヤードセール」という2大行事を開催した意義は大きいと思います。

春に開催された日本祭りでは日本とアメリカの文化交流が促進されました。マジャックが初めて日本祭りに関与したのは1998年でした。シカゴ日系人会(JAAC)との合同開催によるもので、第1回開催から数えて17回目に当たります。(以前は「桜祭り」と呼ばれていたようです)

シカゴ日系人会との合併により新メンバーがかなり増えました。日本祭りの会場はシカゴ・ボタニック・ガーデンの中にあり、こぢんまりとしていました。外景には日本庭園があり感触は良いと思っていました。中庭には盆栽ガーデンがあり、生け花の展示会場には都合の良いスペースでした。

1998年の日本祭りは、このイベントを引き継いだ直後でもあり、JAACの会員主導でスタートしました。マジャックのメンバーも楽しんでバーベキューをしたり、その他の手伝いを通じて翌年からのお祭りの経験を重ねていきました。

1998年日本祭り

1998年日本祭り

1998年日本祭り

1998年日本祭り

土曜日と日曜日の2日間のイベントではいつも天気が心配でした。何回か半日ほどですが、雨に降られたこともありました。会場の舞台はこぢんまりしており、垂れ幕は内本夫人の手書きの絵でかなり大きな作品でした。大きな鯉のぼりや提灯、その他会場の飾りつけの備品は内本さん宅に保管されていました。

日本舞踊のパフォーマンス、柔道その他の武芸紹介など盛り沢山の余興公演がありました。会場はそれほど大きくはないものの観客の動員数は相当あったと思います。ボタニック・ガーデン(植物園)の会員も散策途中に立ち寄ってくれ、結構の人数になりました。さらに、日本祭りの日に、たまたま来園していた一般客も日本祭りの観客となりました。お陰でこのイベントの知名度も向上したのではないかと思いました。

しかし問題だった点は、この会場はMAJCメンバーが多く住むシカゴ北西部から遠く不便だったため、ボランティアを集めるのが大変でした。もちろん元JAACのメンバーの皆さんも参加し、協力体制はかなりの期間にわたり続いていたと思います。また舞台でパフォーマンスを披露するグループにとっても太鼓、箏琴、茶道の道具を運ぶのが難儀だったと思います。特に、イベント会場は離れ小島にあり、物の運搬や人の移動が大変でした。

その後 会場の選択や運営方法にはさまざまな変遷がありましたが、ボタニック・ガーデンのマネージング機関の方針に変更があり、日本祭りのために会場提供はできないと断わられた際は頭を抱えてしまいました。突然の申し入れで、新しい会場探しには苦労しました。それでも、私たちは手分けをして2~3か所の高校に問合せ、学校の体育館を使用できないか打診してみましたが、どこも都合がつかず、断念せざるを得ませんでした。

ちょうどその頃、District 214 Forestview Educational Center (Arlington Heights) が新しい方向性を考えていた時機でもありMike Field (Director) さんと出会ったのもその頃でした。お互いに必要条件が上手く合致したため、第24回日本祭り(2005年)はこの会場で開催することになりました。このセンターには「特殊学校」があり、開催日のスタート時間を調整する必要がありましたが、みんなで工夫して開催に漕ぎつけました。アーリントンハイツ市との長く良好な付き合いが始まったのはこの時からです。

この会場に移った利点は数々ありました。例えば、会場のスケールが大きく、高速道路からの出入りが楽だったこと。さらに、地の利が良く新しい参観者が増えたことでした。また、この会場には劇場や大小さまざまな部屋があり、ボランティアの休憩室、特別プログラム用の小部屋など、利用方法を考える上でバラエティーを持たせることができました。新しい会場に移った結果、皆が力を合わせ楽しみながらイベントを盛り上げることができ、上々のスタートだったと思います。

Arlene Mulder元アーリントンハイツ市長も大変乗り気になって、市当局との強力な体制が築けたと思います。日本祭り開催に際しては、保健局との連絡、消防署の協力、警察署の援護も必要でした。市とのお付き合いはその時から続いており、Thomas Hayes現市長にも引き継がれています。

またMike Fieldさんとの繋がりができたことが切っ掛けで Forestviewの会場を熟知するDoug Martinさんを紹介されました。ご本人との協力体制は効果的で、労働組合に所属するメンテナンス作業員たちとの付き合いも良好で、作業員から多大な協力が得られました。

会場については、いろいろな事情により変化がありました。ボタニック・ガーデン、Forestview Educational Center、Elk Grove High School(臨時)、アーリントンハイツ競馬場、最後はForestview Educational Centerに戻りました。

1998年の日本祭りは初回から数えて第17回目に当たり(第1回が1982年に開催された計算)、伝統的なイベントとなりました。歴史的にみて「世の為、人の為」に面倒見のよい人(個人的な資力)に頼ってきた時代から、マジャックという団体のように総合力に基づく新しい体制に移る時代になったのだろうと思います。

ボタニック・ガーデンで開催していた当時、日本祭りのフードサービスの采配には乾杯レストランのオーナーの伊勢田圭子さんがプロとして大いに力を発揮してくれました。 

各航空会社からのサポートも上々でした。アメリカン航空、日本航空、ノースウエスト航空などから日本往復券がペアで提供されたり、協力的なレストラン各社(12)からの食事券の提供もありました。さらには、レストラン・サプライ商社、醤油、酒類、食器メーカーなどからの景品提供も活発でした。

一方、マジャックではラッフル券を販売し、強力な資金集めの源にしていました。近年の事を思うと、時代の移り変わりを感じると同時に、あの頃が夢のようです。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              

日本祭りも2年目に入ると経験不足が顕在化してきました。フードを取り扱う保健局の許可証に始まり、衛生管理を万全に期す注意事項の徹底化をおこないました。例えば、保健局の許可を確かめずフードサービスの時間が来てクッキングを始める前に張り切り過ぎたボランティアが先走りをして、検査員の心証を害し、ストップを掛けられるハプニングもありました。続く年も同じようなミスが起こり、先人から後進への引継ぎが大切だと痛感しました。

JWV OF CHICAGO の輝かしい歴史

JWV of Chicago(Japanese Women Volunteers of Chicago)の設立やその活動にも触れておかなければなりません。このグループが設立された時の発想には今更ながら頭が下がります。

「日米経済摩擦、ジャパン・バッシング等の言葉が巷に溢れ、日米関係に問題が山積みされていた当時、縁あってこの地で日々を過ごす我々日本女性として、地域社会に対して何らかの貢献をしたいという発想から、1992年9月第1回ヤードセールをおこなった。地域の日本人社会に呼びかけ、各家庭に眠っている不用品(家具、衣類、雑貨、玩具、スポーツ用品など)の提供を受けて9月18日(金)19日(土)の二日間、ヤオハンの駐車場の一隅に設けたテントでおこなったヤードセールは、暗中模索ながら予想外の好成績を挙げ、以来、年に一度の恒例の催しとなった。1993年Not for Profit Organization としてにイリノイ州許可による法人設立」

完璧にマニュアル化されたヤードセール開催の手引きには、細かい配慮に満ちており素晴らしい内容でした。設立当初の活動はJCCCともコラボレーションされていました。以下のようにヤードセールは毎年秋に開催され、アメリカ社会に対して多大な貢献をおこないました。

チャート2

第1回 1992 第2回 1993 第3回 1994 第4回 1995 第5回 1996
第6回 1997 第7回 1998 第8回 1999 第9回 2000 第10回  2001
第11回  2002 第12回  2003 第13回  2004 第14回  2005 第15回  2006

ヤードセールの収益(諸経費を差し引いた剰余金)は、15年間にわたり意義ある受取先に寄付されました。詳細は当時の会報で報告されており、この欄では省略します。

このイベントが始まった当初、寄付品は大変品質の良い物でした。しかし、時が経つにつれて粗悪品が増え、また家具のような大きなものは敬遠されるようになりました。とりわけ、最終日の後片付けの時には処分に困る事態となりました。また、そのことが収益の低下の原因にもなりました。

後年、若い世代の人たちがグループで行う「ガレージ・セール」がトレンドになってたため、ヤードセールへの品物提供が減少しました。これも時代の流れによる変遷だと思いました。

しかしながら、女性ボランティアが身につけたエプロンには “Sharing and Caring” とスローガンがプリントされ、多く方々が活躍された有意義な年次イベントでした。もちろん多くの男性ボランティアも参加し、会場の設置、重い家具の運搬、トラックを運転して寄付品を集め、力仕事を受け持ちました。数々の運送会社から協力を得て、荷物の保管、運搬や搬入など、積極的な支援をして頂きました。

ヤオハン(現在のミツワ)の駐車場を無料で提供を受け、大型テントを2幕設営し、そこに寄付品を収めることができました。テントの設置なくしてヤードセールの開催は成り立たなかったことでしょう。また、ヤオハンからは店内奥のスペースも提供していただき、イベントの2週間以上前から、ご婦人方によって仕分けや値段つけ作業が続けられました。ここでもJWVのマニュアルが生かされました。

当時のヤオハン店長も地域社会への貢献に積極的でたいへん助かりました。そして、この時も大きなイベントの宣伝や経過報告の役割を果たしたのも会報でした。

ヤードセール

ヤードセール

ヤードセール

ヤードセール

さて、「新風」39号に写真入りで新・旧会長のメッセージが掲載されました。続く40号に掲載されてた新年会挨拶で、私は以下のキーポイントについて述べました。

  • マジャックにとって恥ずかしくない会長になるように努めます。
  • フェアーな見方をして、見識を広めるように努めます。
  • 何事も簡単にあきらめないで、目的達成のための工夫をするように努めます。
  • 次の世代の役員が運営をし易くなるように良いシステム作りに努めます。
  1. スローガン
  2. 勇気をもって挑戦
  3. 最優先したいこと
  4. 大切な予定事項
  5. 年間行事の予定は日時を早めに決定
  6. 体験参加のお奨め
  7. コミュニケーションの風通し
  8. MAJCサロン

私自身、会長就任に際し、会員の皆さんをはじめ、関連各位の顔と名前をしっかりと覚え、相互の顔と名前がつながる効用を考えました。役員と理事の引き受け手が消極的な傾向であり、また、会員仲間の関心も高める必要がありまた。

  • 広報部会のスタート、青年部会を通じて英語圏のメンバーとの交流を進める。
  • MAJCのHome Pageを誕生させたい。
  • 先立つものは「人と金」であり、活動資金の増強が必要である。

会合に使えるオフィス(クラブハウス)が必要だと感じていました。最初 乾杯レストランの北隣に伊勢田オーナーご夫妻の協力で念願のオフィスが借りられました。そのあと、2356 South Elmhurst Road, Mount Prospect, IL., 60056 にオフィスが移りました。その結果、セミナーが気楽に開催できるようになりました。まとまりの良いレイアウトの部屋はいろいろなセミナーに活用できました。

クラブハウスがまだ無かったころに「マジャック・サロン」を立ち上げた動機は、事前に集まりの予定日時と会場が明示されれば、会員は予定が立て易いと考えたからでした。

サロンの会場としてHQ Corporate Center内の会議室を2年分予約した経験もあります。参加者が30人以上集まれば5ドルほどの参加費で開催できると考えたからです。2年間分のプログラムを組んだのもそのためでした。マジャック・サロンは良い方向に進み、参加者も増えました。

私も任期中は日々夢中になって考え試行錯誤を繰り返し進み続けた感じです。先達の会長諸氏、後進の会長諸氏も同じようなプロセスを踏みながら日本人クラブのために貢献されているのではないかと思っています。

各種教室の活動状況も活況がありました。

  • 習字教室
  • 体操教室
  • ダンス教室
  • ゴルフ教室

忘年会では皆が料理を持ち寄り、いつも和気あいあいとして盛り上がりました。

新年会での印象は以下の通りです。

  • 会員の皆さんによる余興は活発で、タレントぶりを発揮されました。
  • サイレントオークション、福袋のための寄付も活発でした。
  • 寄付集めの上手な会員は、日ごろからのお付き合いを丁寧にしていました。
新年会

新年会

自動車安全運転のための講習

長い間スタンレー深井さんにお世話になりました。運転免許証テストに合格する秘訣の話は楽しかったです。また、リタイア前に航空会社のメンテナンス作業に携わっておられましたが、その頃の裏話なども面白かったです。

特別企画「日米150年祭」への協力

2年にまたがるイベントでしたが、坂場三郎シカゴ総領事(当時)のお話をまとめるインタビューには、編集部員(土屋さん、世良さん、上原さん)と共に参加しました。公邸にお招きいただきリラックスした雰囲気で取材ができたと思います。特に、インタビューの際、総領事からお話しのあった明治初期の岩倉使節団については、その善行に誇りを覚えました。岩倉使節団はシカゴ大火災の直後にシカゴに立ち寄り、その惨状を目の当たりにし、多額の見舞金をシカゴ市に寄付したそうです。世界でも重要な二国間の協力と友好に基づく日米同盟の話も認識できました。マジャックはこの「日米150年祭」にも協賛しており、私たちはそれぞれ自身の歴史に目覚めたのではないでしょうか。

また、「日米150年祭」に関して、「新風」編集部がシカゴ大学の図書館司書を務めておられた奥泉氏栄三郎氏(故人)へのインタビューを実施し、その内容は会報42号と43号に連載されました。奥泉さんを囲んでのインタビューには、土屋裕敬さん、上野克三さん、上原敏子さん、世良敬明さん、白滝精彦さんが参加しました。

編集方針として41号から「新風」は四季報として続けていくことになりました。高橋俊浄さん(故人)上野克三さん(故人)、その他の方々に連続記事を寄稿していただきました。寄稿された会員の皆さんたちに感謝したいと思います。同時に、編集に携わってくれた部員の皆さんにも感謝をしています。

ここまで会報「新風」を基に、私の回想録を書き記してきましたが、これ以上詳しく伝えきることはできません。このあとに回顧録を書かれるでだろう元会長諸氏に活用して頂ければ幸いです。私が所持している会報のバックナンバーをお貸ししますので、ぜひ活用して頂きたいと思います。皆さんにはそれぞれ会長在任中の良き思い出を多々おありだと思います。

最後に、マジャック・CJCのメンバーとして、皆さんと良いお付き合いをさせて頂いたことに感謝しています。 

シカゴ日本人会の益々のご繁栄をお祈りいたします。

2023年3月8日

竹内 清太

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