藤川 定之(第2代会長)

image-fujikawa Memoirs

MAJC 回顧録(1996年-2002年)

Mid-America Japanese Club (MAJC) / シカゴ日本人会の設立30周年、おめでとうございます。

30年という期間は小生にとって縁があるようです。30才の時に会社の駐在員としてシカゴに赴任しました。その後、30年目の60才の時にMAJC会長を拝命しました。丁度、日本30年、アメリカ30年の人生の節目でした。

現在、日本へ帰国して15年が経ちました。年齢も86才と後期高齢者です。当時の記憶もあやふやです。帰国時に身辺整理をしたため、残念ながら、会長時代の日記やメモを処分してしまい、おぼろげな記憶を頼りにこの記事を書くことにします。記憶違いがあればご容赦願います。

会長に就任した当時にある記事にも書きましたが、前会長の荻野氏から次期会長を頼むと言われたとき、その任にあらずと再三お断りしました。しかし最終的に理事会による説得を受け入れました。

日本の会社の駐在員では平凡なサラリーマンでした。当時は1ドル360円で、日本からのドル持ち出しに厳しい統制があった時代に海外勤務を命じられ、シカゴに着任しました。自分から何か野心に燃えてやってきたわけではありません。女房からは「駐在期間は3年という約束だったでしょ?」と今でもなじられています。それでも30年間、家庭も子供も女房任せっきりで突っ走って来ました。文字通り「会社人間」でした。まして、MAJCの設立趣旨に掲げられた地域社会への貢献やアメリカ社会における日系人の地位向上など、言葉では理解できても、念頭にはなかったと言うのが正直な気持ちです。従って、会長に就任しても果たしてやっていけるのかどうか自信がなく、躊躇しました。

還暦記念に引き受けた会長職

しかし、常々人との縁は大切にしており、MAJCの皆さんと出会ったのも縁。会長に選任さ れたのも縁。小生の人生も日本30年・アメリカ30年の分岐点にあたり、これも何かの縁 。MAJC会長職も自身の「還暦記念行事」のつもりで引き受けました。

さて、MAJCも組織のひとつであり、組織と聞くと拒否反応を示す人は多いものです。例え ば、規則がうるさい、時間に縛られる、寄付を求められるなど、普通はネガティブに考えが ちです。幸い、MAJCは荻野前会長をはじめ先輩諸氏の努力で、日米評議会会長のMr. Ralph Fujimoto(会計士)の会員団体に認可され、その傘下に在りました。しかし、会員数は少なく 、運営資金も十分とは言えない時代でした。

荻野前会長はMAJC創立時の挨拶で「MAJCは一体何をしてくれるのかと問われても困る。3 年か4年を経てMAJCに『入会してよかった』と思われる会をめざす」と発表されました。つ まり小生がこの質問に答えを出すべき時期に会長職を務めることになり、言い換えれば 「MAJCに入会してよかった」と思ってもらえる組織にする責任を背負い込んだことになり ます。

会長在任中の評価は会員諸氏にお任せするとして、この回顧録では在任中に手掛けた出来事 2 や実施したイベントについて、その裏話などを書き残し、皆様の参考にしていただきたいと思います。

小生の会長在任期間は1996年から2002年までの7年間でしたが、在任中、前半は棚瀬恒夫氏 (日通シカゴ支店長、途中で帰国)に副会長・専務理事を務めていただき、後半は竹内清太氏(第3代会長)に務めていただきました。両氏には一方ならぬご協力を頂き感謝しています。

シカゴ日系人会との合併

最初に直面した難問はシカゴ日系人会との合併問題でした(当時の会長は内本テッド忠氏)。内本氏とはそれまで面識はなく、ある日突然、先方から依頼を受け、棚瀬専務理事を伴って面談に臨みました。内本氏の申し出とはシカゴ日系人会が(1964年8月創立)が存続不能となったためMAJCに引き取って欲しいという依頼でした。つまり合併の相談だったのです。

そもそも、MAJCは戦後自ら希望し渡米した方々を中心に組織されたグループで、シカゴ商工会議所の傘下である企業の駐在員、さらに日系一世・二世とは立場が異なります。よって日系人会との合併などあり得ないと思いました。同様にMAJC理事会も合併には否定的な雰囲気でした。しかし、その後も内本氏から再三の要請を受け、4回か5回の会合をもったように記憶しています。

合併の最重要項目はシカゴ日系人会が主催してきた「JAPAN FESTIVAL」だけでも継承して欲しいという依頼でした。合併の申し入れは日系人会で承認された総意でもあるという説明もありました。

ところでシカゴ日系人会ですが、内本氏をはじめこの会の方々は戦前から米国西海岸住み、差別と排斥が繰り返されるなか、幾多の辛酸を経験しながらも子供(二世)を生み育て、その二世たちが米国市民権を取得することが定住を可能にする唯一の手段だった時代を生き抜いて来た方々です。戦後ボーダレスの時代となって渡米した我々との間に大きなギャップがあります。そうした点を考えてみても、果たして二つの組織が歩調を合わせてやっていけるか疑問を感じました。

しかしMAJC理事会は最終的に合併を承認し、日米評議会もこの合併を評価してくれました。MAJCが承認した以上、前進するしかありません。小生もここで覚悟を決めました。

ところが思わぬ問題が生じたのです。内本氏から合併はシカゴ日系人会の総意であり承認済みとの説明があったにもかかわらず、合併を決まった直後、シカゴ日系人会の方々から小生の家に再三電話があり「合併は内本氏の独断だ。認められない。勝手なことをするな!」と猛烈な反対意見と抗議の声が寄せられ、対応に苦慮したことを今でも想い出します。

小生が会長に就任した当時のMAJC会員数や手持ち資金から考えると、合併は大きな荷物を背負い込んだと言うのが率直な気持ちでした。実際、小生はシカゴ日系人会についてほとんど知識がなく『シカゴ日系百年史』(伊藤一雄著・シカゴ日系人会発行)、『シカゴ日系人史』(藤井寮一著・シカゴ日系人会発行)、『アメリカの歴史』全5巻(サミュエル・モリソン著)などを読んで知識を深めました。

ジャパン・フェスティバル (Chicago Botanic Garden)

小生はこの時までJapan Festival”に参加したことがなかったものの、シカゴ日系人会との合併に反対や異論を唱えた方々に対する意地もあって、大切な会社の仕事を犠牲にしてまで連日準備に取り組んだつもりです。

会場をシカゴ郊外のシカゴ・ボタニック・ガーデンに決め、会場の飾り付け、ステージでの上演者の募集、スケジュール作成、会場に併設するセールス用テーブル、日本食の炊き出しや食事の提供依頼に奔走しました。

開催当日はすべてぶっつけ本番でしたが、幸いなことに、食事の用意や提供は当時乾杯レストランの経営者だったJerry 伊勢田ご夫妻が終始面倒を見てくださり、加えて女性会員、会員の奥様たちが一丸となって協力してくれました。ステージの方も阿部シカゴ総領事(当時)のご挨拶に始まり、パフォーマンスもすべて無事に終了しました。会員の皆さんが結束してくれたお陰で、予想を超える成果を出せたと自負しています。

このフェスティバルは年中行事として3年続けてボタニックガーデンで開催しましたが、4年目の開催を前にこの会場は使用できないとの連絡があり、代わりの会場探しを始めましたが困難を極めました。代替施設は集客しやすく場所で、ステージがあり、来客用のパーキングが十分確保でき、加えて、食事の用意やチャリティー用テーブルの設置ができる規模の施設となると簡単には見つかりません。結局、Arlington Heights のミツワ・マーケットプレースに近いForest View Educational Centerと交渉が成立し、それ以降の数年間はこの施設を使いJapan Festivalの会場としました。開催内容や規模はボタニックガーデンの時とほぼ同様でした。

モントローズ墓地

ここでシカゴの日系人に関する裏話をひとつご紹介したいと思います。

毎年Memorial Dayの祝日にシカゴ市内のモントローズ墓地(Montrose Cemetery: 5400 N. Pulaski Rd., Chicago)で日系人団体や個人が集まり、シカゴで亡くなられた方々の追悼式 (Chicago Japanese Community Memorial Day Service) が執り行われています。小生も会長時代にMAJC代表として毎年参列しました。聞くところによると1942年以降、日系人の埋葬はこのモントローズ墓地の離れた所にある小さな場所だけで行われたそうです。日系人が強制収容所から解放され、シカゴへ移った人も多っかたものの、十分な広さの墓地がなく、故人の埋葬場所には随分困ったようです。

そこでシカゴ共済会 (Japanese Mutual Aid Society of Chicago) がシカゴ近郊を含め25か所もの墓地に埋葬の可否を問い合わせたところ、返事があったのはわずか3か所のみ。そのうち2か所からは埋葬拒否との回答があり、最後に残ったのがこのモントローズ墓地だったそうです。その後、共済会は苦労を重ねて埋葬用地の買い増しを続けただそうです。

人種差別や排斥は怖いものです。序(つい)でながら、小生がシカゴ着任当時のことですが、最初に訪れたアパートのオーナーから「日本人は嫌いだ。アパートは貸せない」と断られたことを思い出します。

このモントローズ墓地の傍には老人ホーム・介護施設があり、居住者の殆どが日系一世と二世のご高齢者たちです。小生の妻は無償奉仕でこの施設に2年ほど通い、日本の唱歌や日本の昔話を読み聞かせ、たいへん喜ばれたと聞かされています。これはひとつの例ですが、シカゴ日系人会に対していろいろと配慮をしたつもりです。

あやつり人形劇団「結城座」を招待

次に、東京都指定文化財で360年余りの伝統を誇るあやつり人形劇団「結城座」を招待したことも大きなイベントでした。シカゴ公演はダウンタウンのFirst Chicago Centerでしたがが、イベント会場の選択と準備では難題が続出し頭を抱えました。結城座はプロの劇団です。そのため舞台の大きさ、照明装置、公演日の予約、さらには人形劇なので劇場が大き過ぎてもいけない。特に人形劇にとってステージの奥行と高さには、厳しい条件がありました。

日本でも滅多にお目にかかれない伝統芸能をシカゴで主催する・・・。これはMAJCの存在を周知してもらう格好の機会でもあり、赤字でも実施したいと取り組んだイベントだったのです。有り難いことに棚瀬専務理事が東奔西走し、難問をひとつひとつ解決してくれたお陰で、なんとか実施にこぎ着けたことは特筆に値します。当日は300人以上の観客が訪れ盛況なイベントとなりました。丁度同じ時期、先に述べたJapan Festivalの開催とも重なり、どちらも片手間では実施できないほど大切なイベントでしたが、ここでも会員諸氏のご協力で、いずれも成功裡に終えることができ、MAJCの存在も次第に定着していきました。

チャリティー ヤードセール

ミツワ・マーケットプレースの駐車場のほぼ半分を借りて実施したCharity Yard SalesもMAJCが主催した大きなイベントの一つで、年中行事として3回ほど実施したと記憶しています。駐車場には大型テントが二幕設営され、一方には衣料品、もう一方には家具・道具・書籍他を並べて(いずれも会員からの寄付)、土・日にわたり実施しました。

ミツワの別室には開催日のだいぶ前から寄付された品々が集められ、女性会員や会員の奥様たちが連日ボランティアで衣料品の選別や値札付けをしてくれました。集めた衣類の中には汚れたままの下着類などがあり、作業に従事された方々には、たいへん不快な思いをさせたことと思います。寄付された品目数が想像以上だったこともあり、出店前の準備には相当な時間と手間が掛かりました。

一方、家具を提供された方のために、小型トラックで家まで回収に伺いました。時間の制約もあり10日ほどは連日引っ越し業者さながら走り回り、汗まみれでクタクタになったことを鮮明に覚えています。この家具類を集荷する時もJerry 伊勢田氏から一方ならぬご協力をいただいてことをこの回顧録に書き残しておかなければなりません。

チャリティー ヤードセール実施にあっては、数年にわたり、このような忙しさが続きましたが、記憶を辿れば、最後に開催したのは、世の中が騒然としていたニューヨーク・テロ事件(2001年9月11日)の直後の週末だったか思います。ところで毎回ヤードセールの売り上げは地域の団体に寄付しましたが、残念ながら団体の名称は詳しく覚えていません。

他にもユニークなイベントが次々と実施され、いくつか例を挙げれば、日本から伊部京子さん(和紙造形家)がシカゴを訪問され、和紙による創作アクセサリーから大掛かりな舞台装置に至るまで和紙による造形芸術を紹介してくれました。また、シカゴ科学産業博物館 (Museum of Science and Industry, Chicago) のクリスマス・ディライトへの参加も想い出が深く、さらには新春恒例の新年会にはシカゴ総領事や日米評議会の幹部の方々をはじめ、たくさんのゲストをお招きし盛大に執り行われました。

MAJCクラブハウス(コロニー スクエア)

書き忘れてはならない点をもうひとつ。Jerry伊勢田氏のご好意により乾杯レストランのあるコロニースクエア(Elmhurst Rd. & W. Oakton St.)に一室を借りて、ここにMAJCクラブハウスを開設しました。クラブハウスには寄付された日本語書籍を集めた「貸出図書館」が設置され、会合やチャリティーセールの開催などさまざまな目的に利用しました。

以上、長々と回顧録を綴ってみましたが、どのイベントも計画通りに進み、成功裡に終えることができ胸を撫で下ろすと同時に、小生の会長職も無事終えることができました。これも会員諸氏の積極的な内助のお蔭だと感謝しています。

会長就任の依頼を受けた時はさすがに躊躇しましたが、当時を振り返るとMAJC会長を引き受けなければ、せっかくアメリカに来ても自分のビジネスの領域以外は何も学ぶこともなく、帰国の途に就いていたことと思います。会長職を通じて貴重な経験を重ねることができ、また多く学ぶ機会もありました。就任期間中は友人の輪も広がり、実に有意義な期間だったと皆様に感謝せずにはいられません。

書き忘れた出来事や小生の記憶違いがあるかもしれませんが、以上をもって小生の会長就任期間(1996年 - 2002年)の回顧録とさせていただきます。またご一読いただいたことに感謝申し上げます。

最後になりますが、シカゴ日本人会の益々の発展を遠い日本から希求いたしております。

2022年11月7日

兵庫県 宝塚にて

Copied title and URL